M&Aの補償上限(キャップ)は「売却後に表明保証違反で払う総額の天井」、免責金額(バスケット)は「損害が一定額を超えるまで請求を受けない基準額」です。会社を売る側は、上限・免責金額・補償期間・上限の例外の4点を必ず交渉してください。上限も期間もない契約は、中小企業庁も「売り手が過大な責任を負うおそれがある」と注意を促しています。
この記事でわかること
- キャップ・バスケット・デミニミス・補償期間の意味と違い
- 2025年12月に改訂された中小企業庁の株式譲渡契約書サンプルの書き方
- 上限の「相場」について、確認できる根拠とその限界
- 上限と免責金額の決め方で、売り手が払う額がいくら変わるか(シミュレーション)
- 最終契約までに売り手が進める交渉手順と、言い回しの例
こんな方に向けた記事です:株式譲渡契約書(SPA)の案を受け取った、またはこれから最終契約の交渉に入る中小企業オーナー。とくに「上限=譲渡価額」「補償期間の定めなし」の条文を見て不安を感じている方。
この記事は一般的な情報提供を目的としています。補償条項の解釈・修文・交渉は案件ごとに判断が異なります。実際の条文交渉はM&Aに詳しい弁護士に、税務の表明保証は税理士にご相談ください。
結論:売り手が交渉すべきは「上限・免責金額・期間・例外」の4点
売り手にとって補償条項の交渉は、「売却後に最悪いくら、いつまで払う可能性があるか」を契約で固定する作業です。重要なのは次の3点です。
- 上限(キャップ)がない・期間がない契約は避ける — 中小M&Aガイドライン(第3版)p.52-53は、期間や責任上限が設定されていない場合、売り手が「過大な表明保証責任を負担」し争いになるリスクを指摘し、「定型的に無期限、無制限の表明保証条項」は慎重に検討すべきとしています。
- 「上限=譲渡価額(100%)」は交渉の出発点にすぎない — 2025年12月15日時点版の中小企業庁の契約書サンプルは、上限を「譲渡価額の●%」と定める形に改め、「100%に近い上限が設定される場合には、その妥当性について慎重に吟味することが必要」と注記しています。
- 上限の数字より「何が上限の例外か」を確認する — 上限を10%にできても、税務や故意の違反、特別補償が例外として広く外に置かれていれば、実質的に上限がない状態に近づきます。
(出典:中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」、同 参考資料7 各種契約書サンプル(2025年12月15日時点版) 確認日2026-09-16)
表明保証そのものの仕組みから確認したい方は、先に「M&Aの表明保証とは?わかりやすく解説」をお読みください。
キャップ・バスケット・デミニミスとは:補償額を制限する5つの仕組み
補償条項には、売り手の支払いを制限する仕組みが主に5つあります。キャップは「総額の天井」、バスケットは「累計の基準額」、デミニミスは「1件あたりの足切り」、補償期間は「請求できる期限」、例外は「制限が効かない項目」です。
仕組み | 意味 | 売り手にとっての効果 | 契約書で確認するポイント |
|---|---|---|---|
キャップ(補償上限) | 補償額の総額の上限。多くは「譲渡価額の●%」で定める | 最悪の場合の支払額を固定できる。最も重要 | 上限の有無、何%か、何に適用されるか |
バスケット(免責金額) | 損害の累計が一定額を超えるまで請求できない基準額 | 小さな請求を何件も受けるのを防ぐ | 金額、超えた後に「超過分だけ」か「全額」か |
デミニミス(少額免責) | 1件あたりの損害が一定額以下なら補償対象外にし、累計にも数えない | 細かい指摘の積み上げを防ぐ | 1件の金額、同じ原因の損害をまとめて1件と数えるか |
補償期間(サバイバル期間) | 買い手が補償を請求できる期間 | 期間が過ぎれば請求を受けない | 起算日、月数・年数、項目ごとの例外 |
例外(カーブアウト) | 上限・免責金額・期間の制限が効かない項目 | 範囲が広いほど制限の意味が薄れる | 故意・詐欺、株式の所有権、税務、特別補償など |
(用語の枠組み:M&Aキャピタルパートナーズ「バスケット条項とは?」、SRS Acquiom「2026 M&A Deal Terms Study」用語集 確認日2026-09-16)
表記の揺れに注意:日本語の解説では「バスケット」「ミニ・バスケット」「免責金額」「デ・ミニミス/ディミニマス」の呼び方と定義が一致していません。英米の実務では「ミニ・バスケット」を1件あたりの基準額の意味で使う例もあります。本記事では「1件あたり=デミニミス」「累計=バスケット」と定義をそろえて説明します。契約書を読むときは、名前ではなく「1件の金額か、合計の金額か」を条文の文言で確認してください。
「補償」と「損害賠償」の関係
補償(インデムニティ)は、表明保証違反や契約上の義務違反で買い手に生じた損害を、売り手が金銭で埋め合わせる約束です。中小企業庁のサンプルでは、補償の対象に「損害、損失又は費用(合理的な弁護士費用を含む)」が含まれています。つまり、補償額には損害そのものだけでなく、紛争対応の弁護士費用も上乗せされうる点を押さえておきましょう。
上限・免責金額がないと、売り手はいくら請求されうるか
上限も期間もない契約では、売り手が受け取った譲渡価額を超える請求を受ける可能性があり、請求を受けうる期間も長くなります。売却の手取りがマイナスになるおそれもある、というのが最大のリスクです。
上限がない場合
補償条項に上限がなければ、違反と相当因果関係のある損害が補償の対象になりえます。中小M&Aガイドライン(第3版)p.53は、表明保証をめぐる紛争について「当事者間の感情面での対立が大きく、かつ適切な損害額の算定も困難であることが多いため、請求が過大なものになりやすい」と指摘しています。紛争が起きやすい場面としては、次の2つを挙げています。
- 最終契約後、当初見込んだバリュエーション(企業価値評価)に見合う収益が出ない場合
- デューデリジェンス(DD)で見つからなかった問題が表面化し、後から是正するのが難しいと判明した場合
ガイドラインが挙げる具体例は、「労働紛争はない」と表明保証していたのに実際は紛争があり、M&A後に和解した場合、従業員への和解金相当額を売り手(またはその経営者)が負担するケースです(同 p.22)。
期間がない場合
補償期間を契約で定めない場合、一般的には民法の消滅時効が目安になります。2020年4月施行の改正民法166条1項では、債権は、権利を行使できることを知った時から5年間、または権利を行使できる時から10年間行使しないときに時効で消滅するとされています。期間の定めがないと、売却から何年もたって請求を受ける余地が残るということです。どの時点から時効が進むかは事案により判断が分かれるため、弁護士に確認してください。
表明保証違反が争われた実際の裁判例は、「未計上負債の表明保証違反・判例解説」「株式譲渡の表明保証違反・判例解説(薬局M&A)」で解説しています。
仲介会社・FAには説明が求められている
中小企業庁は「中小M&Aガイドライン(第3版)に関するQ&A」で、仲介者・FAが説明すべきリスクとして「表明保証の内容」を挙げています。あわせて公表された参考資料12「最終契約におけるリスク事項についての説明書サンプル」には、売り手向けに次のチェック項目があります。
- ☐ 表明保証の期間の設定がありません
- ☐ 表明保証の責任上限の設定がありません
- ☐ 表明保証の適用場面が判然としない規定があります
この説明書でいずれかにチェックが入っていれば、交渉が必要なサインです。 仲介会社から説明がない場合は、この説明書に沿った説明を求めてかまいません。
(出典:中小M&Aガイドライン(第3版)に関するQ&A、参考資料12 最終契約におけるリスク事項についての説明書サンプル 確認日2026-09-16)
公的ひな形ではどう書かれているか:2025年12月改訂の中小企業庁サンプル

中小企業庁の株式譲渡契約書サンプルは、2025年12月15日時点版で補償条項が大きく改訂されました。上限を「譲渡価額の●%」で定める形になり、1件あたりの足切り(デミニミス)と累計の基準額(バスケット)、補償期間の目安が加わっています。 一方、M&A支援機関協会のサンプル契約は「上限=譲渡価額」でバスケットの定めがなく、ひな形によって出発点が異なります。
中小企業庁サンプル(株式譲渡契約書 第16条「甲による補償」)の要点
項目 | 改訂前 | 2025年12月15日時点版 |
|---|---|---|
上限 | 「合計損害額●●円を上限とする」 | 「本譲渡価額の●%を超えないもの」。100%に近い上限は妥当性を慎重に吟味と注記 |
免責金額 | 定めなし | 1件●円超の損害の合計が●円を超えた場合にのみ補償義務が発生 |
補償期間 | 「クロージング日から●年」 | 「クロージング日から●か月」。「1〜n回目の決算日+1か月程度」を目安とする考え方を注記 |
その他 | — | 損害軽減義務、商法526条の適用排除、サンドバッギング条項の例を併記 |
(出典:参考資料7 各種契約書サンプル(2025年12月15日時点版)p.24、同 見え消し版 確認日2026-09-16)
上限の注記では「上限の数値を高く設定するのであれば、具体的な上限の数値に応じてその理由には相応のものが求められる」とされています。買い手が高い上限を求めてきたら、その理由を確認する根拠として使えます。
なお、サンプル第16条の免責金額の条文は、基準額を超えた場合「当該合計額について」補償義務が発生するという書き方です。基準額を超えたら1円目から全額が対象になる方式(後述のティッピング型)と読めるため、売り手が「超過分だけ」を補償したい場合は修文が必要になる可能性があります。解釈は弁護士に確認してください。また、同サンプルの事業譲渡契約書(第16条)は、現行版でも「●年・合計損害額●●円を上限」というシンプルな形のままです。
2つのひな形と海外統計の比較
項目 | 中小企業庁サンプル(2025年12月版) | M&A支援機関協会 サンプル契約1(2025年9月版) | 【参考】米国統計(2025年クローズ案件の中央値) |
|---|---|---|---|
上限 | 譲渡価額の●%(100%近くは慎重に) | 本件譲渡価額(=100%) | 取引価額の10.0%(表明保証保険なしの案件でも10.0%) |
免責金額 | デミニミス+バスケットあり(金額は●) | 定めなし | バスケットあり72%(控除型32%・全額型40%) |
補償期間 | ●か月(決算日+1か月程度が目安) | 譲渡日後●年間 | 12か月 |
他の救済手段 | — | 本条以外の損害賠償請求等はできない(排他的救済) | — |
売り手から見た位置づけ | 数値は空欄。交渉で埋める前提 | 上限100%は売り手に重い出発点 | 日本の中小M&Aの相場ではない参考値 |
(出典:M&A支援機関協会 サンプル契約1 株式譲渡契約書、SRS Acquiom「2026 M&A Deal Terms Study」p.60・65・71-72 確認日2026-09-16)
仲介会社から出てきた契約書案の上限が「譲渡価額」だった場合でも、それが唯一の標準というわけではありません。中小企業庁のサンプル自体が、100%に近い上限には相応の理由が必要という立場をとっています。SPA全体の読み方は「M&AのSPA(株式譲渡契約書)とは」で解説しています。
上限・免責金額の相場の目安:日本には公的な統計がない
現時点で、日本の中小M&Aにおける上限・免責金額の水準を統計で示した公的データは確認できません(確認日2026-09-16)。中小企業庁のサンプルも数値は「●」のままです。そのため「相場は◯%」と一つの数字で決めつけず、次の3つを組み合わせて判断材料にするのが現実的です。
1. 公的資料:数値は示されていない
中小M&Aガイドライン本文・契約書サンプル・Q&Aを確認した限り、上限の具体的な割合や補償期間の年数を推奨する記載はありません。インターネット上には「中小M&Aガイドラインが補償上限を譲渡価額の10〜30%としている」といった要約が見られますが、ガイドライン本文にそのような数値は見当たりません(確認日2026-09-16)。示されているのは「100%に近い上限は慎重に」「期間は決算日+1か月程度が一つの考え方」という方向性だけです。
2. 国内の実務解説:10%〜100%と幅が大きい
法律事務所やM&A支援会社の解説では、次のような目安が紹介されています。根拠が示されていないものも多く、案件ごとの差が大きい点に注意してください。
項目 | 解説で紹介されている目安の例 |
|---|---|
上限 | 譲渡価額の10〜100%/20〜30%/50%程度 など解説により幅がある |
免責金額 | 数十万〜数百万円、1件50万〜100万円・累計500万〜2,000万円 など |
補償期間 | 一般の表明保証で1〜3年程度、税務・労務は3〜5年程度 など |
(出典:みつきコンサルティング(2026-02-23公開)、東京M&A法律事務所系サイト(2026-09-13更新)、law-bright.com(2026-09-03更新)ほかの公開解説 確認日2026-09-16)
3. 米国の大規模統計:上限の中央値は10%、期間は12か月
米SRS Acquiomが2020〜2025年にクローズした非上場企業の買収2,300件超を集計した調査では、2025年の案件で次の結果が出ています。
- 一般の上限:中央値は取引価額の10.0%(平均13.2%)。表明保証保険を使わない案件でも中央値10.0%(平均15.3%)
- 表明保証保険を使う案件:上限の中央値は0.5%
- 補償期間:中央値12か月
- 株式の所有権などの基本的な表明保証の上限は96%、税務の表明保証の上限は87%が「譲渡価格まで」
(出典:SRS Acquiom「2026 M&A Deal Terms Study」p.60・71-73・75 確認日2026-09-16)
この統計は米国の中堅〜大型案件が中心で、日本の中小M&Aの相場を示すものではありません。 それでも「上限100%が当たり前ではない」「一般の上限と、税務・株式の所有権の上限は分けて設計されることが多い」という交渉の考え方を知る材料にはなります。
方式別シミュレーション:上限と免責金額で払う額はこう変わる

同じ損害でも、上限の割合と免責金額の方式によって、売り手の支払額は数千万円単位で変わります。 とくに損害が大きいときは上限が、損害が小さいときは免責金額の方式が効いてきます。
バスケットの3つの方式
方式 | 仕組み | 有利な側 | 損害1,500万円・基準額1,000万円のときの補償額 |
|---|---|---|---|
控除型(ディダクティブル型) | 基準額を超えた超過分だけ補償 | 売り手 | 500万円 |
全額型(ティッピング型/ファーストダラー型) | 基準額を超えたら1円目から全額補償 | 買い手 | 1,500万円 |
併用型 | 基準額(例:1,000万円)を超えたら、控除額(例:500万円)を超えた部分を補償 | 中間 | 1,000万円 |
(方式の分類:M&Aキャピタルパートナーズ「バスケット条項とは?」、SRS Acquiom 同調査 p.107(条文例) 確認日2026-09-16)
控除型を買い手が受け入れない場合、併用型は落としどころの一つになります。米国統計(2025年)では、バスケットの方式は「全額型40%・控除型32%・定めなし28%」でした(同 p.65)。
シミュレーション:譲渡価額3億円の場合
前提(説明用の仮定です):譲渡価額3億円、免責金額(バスケット)1,000万円、上限は免責金額を差し引いた後の支払額に適用、デミニミス・例外項目・弁護士費用は考慮しない。実際の計算方法は条文によって異なります。
上限 | 方式 | 損害1,500万円 | 損害5,000万円 | 損害2億円 |
|---|---|---|---|---|
上限なし・免責金額なし | — | 1,500万円 | 5,000万円 | 2億円 |
譲渡価額の100%(3億円) | 全額型 | 1,500万円 | 5,000万円 | 2億円 |
譲渡価額の100%(3億円) | 控除型 | 500万円 | 4,000万円 | 1億9,000万円 |
譲渡価額の30%(9,000万円) | 全額型 | 1,500万円 | 5,000万円 | 9,000万円 |
譲渡価額の30%(9,000万円) | 控除型 | 500万円 | 4,000万円 | 9,000万円 |
譲渡価額の10%(3,000万円) | 全額型 | 1,500万円 | 3,000万円 | 3,000万円 |
譲渡価額の10%(3,000万円) | 控除型 | 500万円 | 3,000万円 | 3,000万円 |
この表から読み取れるポイントは3つです。
- 大きな損害が出たときに効くのは上限:損害2億円の場合、全額型で比べると上限100%(2億円)と上限10%(3,000万円)では支払額に1億7,000万円の差が出ます。
- 中くらいまでの損害で効くのは免責金額の方式:損害1,500万円なら、全額型か控除型かで1,000万円の差が出ます。
- 上限100%では、免責金額を入れても大きな損害のリスクはほとんど減らない:上限の交渉を後回しにしないことが大切です。
デミニミスの効果
1件あたり100万円のデミニミスがあれば、たとえば「80万円の未払いが10件」見つかっても、1件ずつが基準額以下なので補償の対象外になり、累計(800万円)にも数えられません。ただし「同じ原因による損害は1件とみなす」といった条文があると、まとめて数えられることがあります。
譲渡価額から税金・手数料・補償リスクを差し引いた手取りの考え方は「M&A売却の手取り額シミュレーション」もあわせてご覧ください。
上限の「例外」に要注意:上限10%でも安心できないケース
上限・免責金額・期間の交渉と同じくらい重要なのが、それらが効かない「例外」の範囲を狭くすることです。 例外が広いと、せっかく決めた上限が実際には働きません。
上限の外に置かれやすい項目
項目 | 内容 | 売り手の確認ポイント |
|---|---|---|
故意・詐欺 | 知っていて隠した違反 | 「故意」の定義に「知り得た」「知るべきであった」まで含まれていないか |
基本的な表明保証 | 株式の所有権、会社の設立、契約締結の権限など | 対象項目が「基本的」と呼べる範囲に限られているか |
税務 | 過去の申告内容に関する表明保証 | 上限・期間ともに別扱いにされていないか。期間は何年か |
特別補償 | DDで判明した特定のリスク(係争、未払残業代など)を個別に補償 | 金額と期間が個別に限定されているか |
義務違反 | 表明保証ではなく契約上の義務(誓約事項)の違反 | 上限が表明保証違反だけに適用される書き方になっていないか |
米国統計でも、基本的な表明保証や税務は上限・期間とも一般の表明保証とは別に扱われることが多いと報告されています(SRS Acquiom 同調査 p.61・75)。中小企業庁サンプルの上限も「表明保証の違反に基づく補償責任」についての規定である点に注意が必要です。
契約で制限できないこともある
- 故意・重過失の責任まで全部免れる条項は無効になる可能性が高い:知っていて隠した問題は、上限では守られない前提で考えてください(アイシア法律事務所「M&Aの責任制限条項の落とし穴」 2025-12-15公開・確認日2026-09-16)。
- 上限はあくまで売り手と買い手の間の約束:行政処分や、従業員・取引先など第三者からの請求そのものがなくなるわけではありません(同上)。
隠していた問題が発覚したときの責任については「粉飾決算M&A・詐欺的売却の判例解説」も参考になります。
サンドバッギング条項との組み合わせ
中小企業庁のサンプルは、サンドバッギング条項の例を2つ示しています。
- アンチ・サンドバッギング:買い手がDDなどで知っていた違反は補償の対象外(売り手に有利)
- プロ・サンドバッギング:買い手が知っていても補償の対象になる(買い手に有利)
プロ・サンドバッギング条項があると、売り手がDDに協力して積極的に開示したリスクでも補償を求められるおそれがあります。サンプルの注記は、売り手としては「削除や修文を求めることを検討する必要がある」とし、買い手が特に気にしているリスクは「特別補償という形で別途規定することもありえる」としています(参考資料7 p.24-25)。DDで開示したリスクの扱いが争点になった裁判例は「著作権表明保証違反・プロサンド事件判例解説」で解説しています。
売り手の交渉手順7ステップ

補償条項は、最終契約の直前にまとめて交渉するより、DDの結果をもとに「買い手が何を心配しているか」を先に特定し、個別リスクは切り出してから一般の上限を下げる順序で進めると通りやすくなります。
- リスク説明書で現状を確認する:仲介会社・FAから参考資料12の説明書(またはそれに準じる説明)を受け、「期間の設定なし」「責任上限の設定なし」「適用場面が判然としない規定あり」に該当しないかを確認します。
- 買い手がその表明保証を求める理由を聞く:中小M&Aガイドライン p.53は、売り手がDDの結果から「譲り受け側がどのような問題点を認識しているために当該表明保証の設定を求めているか」の確認を求め、妥当性を議論することが望ましいとしています。
- 既に分かっている問題は開示別紙で表明保証から外す:DDで開示した事実を契約の別紙に列挙し、表明保証の対象外とします。あわせてプロ・サンドバッギング条項の削除・修文を求めます。
- 特定のリスクは特別補償として金額・期間を個別に限定する:係争や未払残業代など、買い手が強く気にしている項目は特別補償に切り出し、「この件は◯円・◯か月まで」と上限を付けます。個別リスクが切り出されれば、買い手は一般の上限を下げやすくなります。
- 一般の上限・免責金額・期間を交渉する:上限は「譲渡価額の●%」、免責金額は控除型または併用型、デミニミスの金額、補償期間は決算日を基準にした月数、というように具体的な数字で提案します。
- 例外の範囲を最小にする:「故意」の定義、基本的な表明保証の範囲、税務の上限と期間、義務違反への上限の適用を一つずつ確認します。
- 表明保証保険・エスクローなどの代替手段を検討する:それでも買い手が上限の引き下げに応じない場合は、保険やエスクローでリスクを移す方法を検討します(次の見出しで解説)。
交渉で使える言い回しの例
- 「中小企業庁の契約書サンプルでも、100%に近い上限は妥当性を慎重に吟味すべきとされています。上限を高くする理由となるリスクを具体的に教えていただけますか」
- 「DDでご指摘の◯◯の件は、特別補償として個別に対応します。そのうえで、一般の表明保証の上限は譲渡価額の◯%でお願いできないでしょうか」
- 「補償期間は、クロージング後◯回目の決算日から1か月程度とする考え方が中小企業庁のサンプルで示されています。その範囲でご検討いただけますか」
- 「免責金額は、基準額を超えた部分のみを補償する形にしていただけないでしょうか。難しければ、一定額を控除する併用型でも構いません」
言い回しはあくまで一例です。仲介会社は一般に売り手・買い手の双方と契約して報酬を受け取る立場のため、利害の大きい条項は売り手側の弁護士やFAに条文を確認してもらうと安心です。仲介者・FAが紛争解決に踏み込むと弁護士法72条(非弁行為)に触れうることもガイドラインで指摘されています(p.50・57)。条件の妥当性を第三者に見てもらう方法は「M&Aセカンドオピニオンの活用ガイド」で解説しています。価格交渉全体の進め方は「M&A売却価格の交渉術」をご覧ください。
表明保証保険・エスクローで上限の交渉をまとめる方法

買い手が「上限を下げるとリスクが残る」と譲らない場合、表明保証保険でリスクを保険会社に移したり、エスクローで補償の原資を確保したりすることで、売り手の上限を下げやすくなります。 ガイドライン p.53も、表明保証保険の購入で「表明保証や補償の範囲に関する…交渉が円滑化する場合もある」としています。
表明保証保険(W&I保険)
保険にも「支払限度額(上限)」と「免責金額」があります。契約上の上限・免責金額と保険の条件がずれると、保険でカバーされない部分が売り手の負担として残るため、両者をそろえて設計することが重要です。
項目 | 東京海上日動「国内M&A保険 Light」の発表時点の例 |
|---|---|
最低保険料 | 50万円(従来の表明保証保険は1,000万円) |
支払限度額 | 1,000万円から設定可能 |
保険料の例 | 取得金額4億円・株式譲渡・電子部品製造業(非上場・設立20年以上)で、支払限度額(1事故)2億円・免責金額(1事故)200万円、概算保険料 約500万円 |
(出典:東京海上日動 プレスリリース(2022年5月19日) 確認日2026-09-16。2022年発表時点の商品情報であり、現行の保険料・引受条件は保険会社への確認が必要です)
保険の加入にはDDレポートの提出や引受審査が必要です。仕組みと費用の詳細は「M&Aの表明保証保険(W&I保険)とは」で解説しています。
補助金の活用:2026年9月4日に公募要領が公表された事業承継・M&A補助金(16次公募、申請期間は2026年10月2日〜11月6日予定)では、専門家活用枠の補助対象経費に「表明保証保険料」が掲載されています(出典:ミラサポplus 確認日2026-09-16)。売り手が手配する保険料がどの条件で対象になるかは公募要領本文で必ず確認してください。申請の段取りは「事業承継・M&A補助金 16次公募 申請ガイド」をご覧ください。
エスクロー
エスクローは、譲渡代金の一部を第三者に預け、補償の支払いに充てられるようにする仕組みです。米国統計ではエスクローなどがある案件の54%で「上限=エスクロー額」とされていました(SRS Acquiom 同調査 p.71)。預ける金額を上限とすれば、売り手は「預けた分以上は払わない」形にでき、上限の交渉と組み合わせやすいのが特徴です。
ただし代金の受け取りが遅れるため、預ける割合と期間は最小限にするのが基本です。日本の中小M&Aでは、クロージング後に代金を分けて受け取る設計は争いに発展するリスクがあるとして、ガイドライン(p.53-54)も慎重な検討を求めています。詳しくは「M&Aのエスクロー・分割払い交渉ガイド」をご覧ください。
状況別の判断目安:交渉を特に重視すべき売り手とは
補償条項の交渉にどこまで力を入れるべきかは、会社の状況によって変わります。以下を目安にしてください。
状況 | 補償リスクの大きさ | 優先して交渉すべき点 |
|---|---|---|
DDが簡易的、または実施されていない | 大きい | 上限と期間の明記、表明保証の範囲の限定(ガイドラインはDD不足で補償額・期間の負担が増えうると指摘) |
税務・労務(未払残業代・社会保険)に不安がある | 大きい | 特別補償として金額・期間を個別に限定、税務の例外の範囲 |
係争中の案件がある | 大きい | 特別補償への切り出し、エスクローとの組み合わせ |
契約書案が「上限=譲渡価額」「期間の定めなし」 | 大きい | 上限の割合、決算日基準の期間、控除型の免責金額 |
買い手が表明保証保険の利用に前向き | 下げやすい | 保険の支払限度額・免責金額と契約条件の整合 |
財務・税務が整理されており、DDで大きな指摘がない | 比較的小さい | 例外の範囲とプロ・サンドバッギングの有無の確認 |
上限・免責金額の交渉を特に重視すべき売り手
- 売却代金を引退後の生活資金や借入返済に充てる予定で、後から返金を求められると生活設計が崩れる方
- 簿外債務・未払残業代・過去の税務処理など、DDで指摘されうる論点に心当たりがある方
- 売却後は経営に関与せず、問題が起きても事実関係を確認しにくくなる方
- 買い手がファンドや上場企業などで、専門家を立てて契約条件を細かく詰めてくる方
細かい数字にこだわりすぎなくてもよいケース
- 表明保証保険で補償の大部分をカバーでき、売り手の上限が保険の免責金額程度に限定されている場合
- 財務・労務・税務が整理済みで、DDでも重要な指摘がなかった場合(ただし上限と期間の「定めがない」状態は避けます)
- 上限の数字を下げる交渉で破談リスクが高まり、代わりに例外の範囲を狭めるなど他の条件で十分に守られている場合
事前にリスクを減らしておくほど、補償条項の交渉は楽になります。準備の進め方は「M&A DD 売り手の準備チェックリスト」「M&A売却前の労務リスク対策ガイド」「M&Aの簿外債務・偶発債務とは」で解説しています。
よくある質問(FAQ)
Q. 上限を下げてほしいと言うと、買い手の印象が悪くなって破談になりませんか?
上限の引き下げは、最終契約の条件交渉で通常取り上げられる論点の一つです。ただし理由を示さずに一律に「10%で」と求めるより、DDで判明したリスクを特別補償で個別に引き受けたうえで一般の上限を下げる、表明保証保険を提案する、といった代わりの安心材料をセットにすると合意しやすくなります。
Q. 上限を超える損害が出たら、本当にそれ以上は払わなくてよいのですか?
契約で有効に定めた上限の範囲では、一般的には上限を超える補償義務は負いません。ただし、故意に隠していた違反や重過失まで全部免れる条項は無効になる可能性があり、上限の例外として定めた項目(税務・特別補償など)には適用されません。第三者や行政からの請求も別問題です。個別の判断は弁護士にご相談ください。
Q. 売却した会社が倒産しても、補償を請求されることはありますか?
補償の請求権は、多くの場合、対象会社ではなく買い手と売り手の間の契約に基づくものです。そのため会社の倒産とは別に、補償期間内であれば買い手から請求を受ける可能性は残ります。補償期間の起算日と長さを契約で明確にしておくことが大切です。
Q. 補償期間が過ぎた後に問題が見つかったら、どうなりますか?
契約で「期間内に書面で請求した場合に限る」と定めていれば、一般的には期間経過後の表明保証違反を理由とする補償請求は受けません。ただし、故意に隠した場合の不法行為責任など、契約の枠外で責任を問われる可能性は否定できません。また、M&A支援機関協会のサンプル契約のように、期間内に請求していれば期間経過後も権利が残る定め方もあるため、「請求の期限」と「権利が消える時期」を分けて確認してください。
Q. 仲介会社は、補償条項を売り手に有利になるよう交渉してくれますか?
仲介会社は売り手と買い手の間に立つ立場のため、一方に有利な条件を強く主張する役割とは言いにくい面があります。一方で、中小M&Aガイドラインは仲介者・FAに表明保証の内容(期間・上限の有無など)の説明を求めています。条文の修文や有利な条件の交渉は、売り手側の弁護士やFAに依頼するのが確実です。仲介とFAの違いは「M&A FA(財務アドバイザー)とは」で解説しています。
Q. 契約書にサインした後で、上限や期間を変えることはできますか?
契約締結後の変更には相手方の合意が必要で、補償リスクを減らす変更に買い手が応じる理由は通常ありません。上限・免責金額・期間・例外は、最終契約に署名する前に必ず確定させてください。
まとめ:上限の「数字」と「例外」を最終契約の前に固める
M&Aの補償条項で売り手が守るべきなのは、上限(キャップ)・免責金額(バスケット・デミニミス)・補償期間・例外の範囲の4点です。中小企業庁は上限や期間のない表明保証に注意を促しており、2025年12月改訂の契約書サンプルでは上限を「譲渡価額の●%」とし、100%に近い上限は慎重に吟味すべきとしています。
日本の中小M&Aには上限の統計的な相場がないため、一つの数字に決めつけず、買い手が心配しているリスクを特定し、特別補償や表明保証保険で個別に手当てしたうえで一般の上限・期間を下げていくのが現実的な進め方です。
補償条項は売却後の手取りを大きく左右します。条文の解釈・修文はM&Aに詳しい弁護士に、税務の表明保証は税理士に必ずご相談ください。
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